榎本新吉さんのこと
  
世界で一つしかない壁を目指して

素材から材料を作り、素材の様子により材料の作り方をその時々案配し、現場の様子に合わせて施工法を考え、時間変化の中で作品の変化を読み事前の準備を行う、左官職人の仕事ぶりは、ルネッサンス当時の画家達の姿をさえ彷彿とさせます。

建築業界から「左官工事」が姿を消したのは、ほぼ20年前です。
いま、学生達は「左官」という言葉すら、知らない者がほとんどです。
左官工事は、水を使うので湿式工法のひとつに入ります。湿式工法は乾くまで時間がかかります。そのためスピ−ドを要求される現代の建築では嫌われ者になってしまったのです。水の代りに合成樹脂を加えることによって、早く、安く、均一にという現代産業が標榜した工法に取って代られたのです。
その一つの結果がいま現れています。住いの中が合成化学物質から発せられる揮発性の有毒ガスによって汚染され、人々の健康が害され、遺伝子にも影響が出始めたと言われているのです。

20年前、職人としての誇りを保持出来なくなり、榎本新吉さんは仕事師としての一線から一時身を引くことになったのです。

これをきっかけに氏は、親父と慕う山崎一雄氏の「山を見ろ」の言葉に従い、各地の山に入り粘土を見て歩くことにより、この土地に生き「日本壁」を作ってきた文化を無くしてはいけないという思いを更に強く意識させることになったそうです。
文京区千石の住いは、いつの間にか土の実験工房の観を呈し始め、採取してきた土塊は地下の材料置場をたちまち占領してしまいました。岩石のように硬くなっている泥の固まりを鉄の棒で500ミクロン以下にまで砕き、ふるいに掛け、水の中に浸けて置きそれぞれの粘土成分を検証する作業を続け、その結果を見ながら土と砂そしてスサの割合を案配しながら、世界に一つしかない壁を作る戦いが始りました。
また、日本壁の歴史の中で大津壁に代表される「磨き」という技術があります。この壁は完璧な仕上げになると、鏡のような光沢をもち水に濡れてもびくともしないものです。
それだけに、大変な技術を要するもので、誰にでも出来るものではありません。
伝統的な技法では、土と消石灰を使っていたのですが、榎本さんは持前の研究熱心さから、消石灰に代えて生石灰をクリ−ムにしたものを使い、素人でも出来るような技法を実証し提案されたりしています。

榎本さんのドン・キホ−テ的な孤独の戦いを影で支えていたのは、雑誌「左官教室」の編集長小林澄夫氏だったそうです。
小林氏は榎本さんから借りた30年も以前に作られたサンプルを小脇に抱え全国行脚を繰返し、各地に残る日本壁のすばらしさを訴えると同時に、左官職人達に土の可能性を示して歩いたそうです。いま全国の左官職人の間から「榎本さん、あの人は天皇みたいな人だ。名人だよ」と言う声が聞かれます。ご本人は、「俺は『迷人』だよ」と謙遜されてはいますが。

榎本さんの、この20年間の動きの中でいまひとつ、素晴しい実績があります。
それは、幼稚園児から大学生、さらには一般の人たちまでを相手にした各地でのワ−クシヨップです。ベランメエ口調で「やってみなよ」に乗せ、土の虜にさせ作ることの歓びを実感させていくのです。そしてその間に、仕事の準備の仕方、手順、片づけ等々の全てのことに係わる基本的な姿勢を伝え、コップ一杯の水がどんなに大切なものか迄を、受講者に身をもって示してしまうのです。

ある日の榎本さんを、ドキュメント風に書いてみました。
 彼から手渡された名刺には、炉壇師 榎本新吉そして朱印で大きく千石新吉、裏に和辻哲郎の「ここに風土と呼ぶのはある土地の気候、気象、地質、地味、地形、景観などの総称である。それは古くは水土とも言われている。人間の環境としての自然を地水火風として把握した古代の自然観がこれらの概念の背後にひそんでいるのであろう。」の一節が書かれていた。
 七十を過ぎた老人の手は土に染まりささくれ立っていたが、ひょいと差出す名刺をつかむ指にはいま現役を続ける精気がみなぎっていた。
 路にまではみ出した作業場には、いつも二十代から三十代のそれも女性の作家たちが土をいじっている。建築の模型を作っている者、花瓶を、額縁を作っている者様々である。「田村さんこの人たちデザインすごいね。俺はデザイン出来ねえから、いつもこの人たちから新しい発想もらうんだよ」。
今は少なくなった炉壇師として、大変な精度を要求される炉壇を作るために、古い鋸を加工し自作した鏝を手にして、「この娘の磨きすごいだろ、この鏝貸してやったらこんなものつくちゃったよ」隣家の氏と同年代の老人が、路上に持出した椅子に腰掛け、榎本氏が若者に話しかけている内容に耳を傾けときに合の手を打ちながら、それらの動きを目で追っている。学校帰りの小学生が興味深げに立ち止り、作業場の様子を眺めていると、作品製作をしている若い女性が「お帰り、ちょっとやってみる」作業の手を休めて子供に話しかける。
 「田村さん、釣やる」「いいえ」。「ビニールの紐、結び方知っているかい、こうすれば結び目がほどけないんだよ」「竹の事詳しいかい」「いいえ」「四方竹ってあるだろう、こないだ鎌倉に行ったらこれが自生していたんだよ」といって、一本の竹を作業場の奥から取出して見せてくれる。「こんなんで、丸窓の格子組んだらいいんじゃねえか」ぽんぽんと飛出してくる氏の興味の対象は、あたかも寿司屋の板前が客に寿司を握るようなスピード感である。
 「いこうや」氏のコヒータイムの合い言葉である。
 「五十の時、左官職人に幻滅を感じまったんだ。でもいま楽しいね。左官やってて本当に良かったよ。こんな歯も無くなっちまった爺さんの所へ、若い女の子がいっぱい来るんだからな」「でも何に興味が有るんだろう、俺にはわかんねえな」「20年前に来てくれれば良かったんだけどな」
 1970年氏が左官に幻滅を感じた頃、日本はバブルの始りであった。建築界はこなしきれないほどの仕事を抱え日の出の勢いであったはずである。
「土、砂、スサ知らねえで壁なんか出来るかって言うんだ。粘土の定義知っているか」「砂分が無くて、ねばねばしていて固まると石のように堅くなって.....」「それから.....」「ほら知らねえじゃねえか」「粘土とは土の粒子が2ミクロン以下の物を言うんだよ」「これちゃんと本に書いてあるから読んでみなよ」
 氏の前に座った左官職人に「年いくつだい」「五十二です」「俺なんか七十になってこんな事わかったんだ、いろんな事見たり聞いたりしなきゃだめなんだよ。そこからいろんなイメージわいて来るんだから」「京都の聚楽壁知ってるかい。京都の土使って、微塵スサ使って鏝も特殊なんだ。すごいね俺には出来ねえよ。京都の職人は伝統だって言いやがるんだ。なに言ってやがるんだって思うんだよね、俺に言わせりゃ伝統じゃなくて伝承だって言うんだ。今までこういって馬鹿にしてきたんだけど、久住章が出て来たんだ。久住さんは若いけどすごいね。大津磨をきっちり出来る職人だよ。こないだ俺んとこ来て作っていったのあるから後で見せるよ」
 豊橋から教えを請うために出てきた職人に、豊橋近郊の土、スサの質問を矢のように浴びせかけ、返答に詰ると懇切丁寧に教える様は、知っていることは何でも教えてやる。どんどん持っていって良い壁を作ってくれという願いがこもっているようである。
 職人に同行してきた、左官屋のお内儀に「大津磨って知ってるかい」「はい、一度見たことがあります」「ああ、そうかい」氏は先ほどの久住章氏の大津磨を見せる約束を反故にしようとしていた。
「見せて下さいよ」私が頼み込むと、奥から大事そうに抱えて持って出てきた。「すごいね、こんな仕事できるの今じゃいないよ」朱色に顔が映るほど磨き込まれた60×45センチほどの大きさの物で中央には、榎本氏がまだ未完成だという鏝絵が創られていた。
 「微塵スサってどうやって作るんですか」「見せてやろうか」と言って、棚からどこの家庭にでもあるステンレスの網ボールを持ち出してきた。「それなら見たことがある。家の父もそれ使っていたわ」「そうかい、じゃ知ってるんだろ、やってみなよ」出来ない、やってみろの押し問答の末、つれてきた職人に助けを求め職人が始めると「そうじゃねえんだよ、かしてみな」スサの作り方を事細かに教えると、「ちょつと、地下に来いよ」地下室には入りきれないほど各地の土や、スサなどが山積みされていた。いくつかの袋をのぞき込みながら「ああ、これだこれだ」「このスサがいちばんいいんだよ」袋には鮎飼料と印刷されている。


「どうだかなあって疑問が有るんだ」榎本さんの口癖です。チャレンジ精神が生れる源がここにあるのでしょう。コテを片手に文化論にまで及ぶ話は、身をもって激動の中を生き続けてきた経験と体験に裏打され、若い人たちに怒りをぶつけ、夢と勇気を与え「この後の者へ」の熱い想いが込められています。

    
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