「木の文化」「石の文化」は、語られることが多いのに反し「土の文化」は、陶芸の世界を除いて今まであまり語られることがなかった。
木、石はその種類により純粋な素材であったからであろう。それに反し土は時に不純物の代表のようにも思われる場合がある。 しかし、土ほどその地域の特性を如実に物語るものは無い。
哲学者和辻哲郎はその名著「風土」のなかで、『同じ人間の本性に根ざした創作力がいかにして「ところ」により異なる芸術を作り出すか』という。誘発体はそれが不純で有ればあるほど、イメ−ジに働きかける力が強い。
レオナルド・ダ・ビンチもピカソも古い壁に付いたシミからいかに多くのインスピレーションをうけたかを語っている。
木や石も確かに「ところ」の産物では有るが、それらは切り出され流通の過程に乗って、「ところ」から切り離され加工されていく。
土は、京都地方にある特別な土を除いてト、場所との関わり性が最も強い造形、建築素材の一つである。 であるから、材料、施工される段階に、独自性を表出するために工人達は工夫を重ね、ごく微細な違いにこだわり、左官職人は日本の壁を作り出すことにつとめたのであろう。
和辻は「風土」の中で、芸術の時間性(伝統、伝習、様式等)に対して場所性(風土、ところ、地域等)を強調した。 さらに時間性も場所性に支えられてきたことを指摘し、近代以降の場所性からはずれてしまった時間性への傾斜を指摘している。
榎本さんの名刺には、水土グループ、炉壇師という肩書きをみる。裏面には和辻哲郎の「風土」の一節「ここに風土と呼ぶのはある土地の気候、気象、地質、地味、地形、景観などの総称である。それは古くは水土ともいわれている。人間の環境としての自然を地水火風として把捉した古代の自然観がこれらの概念の背景にひそんでいるのであろう。」が書かれている。
和紙で作った名刺に丁寧に千石新吉の朱印を押し、荒くれた指先から差し出される。 この一枚の紙切れに書かれた文字ほど、職人榎本新吉の思想的背景を示すものは無いであろう。
水土グループとは、和辻の一節であり、たんに左官職人が水と土を使うからという意味だセけでない「水土クラフトユニオンって言うのは、会費も何もないんだよ。要は集まってくればいいんだよ」と。
この本の存在を知る前から和辻宅の壁を塗っていたという。 「和辻さんには可愛がられたんだよ。今度近所のSさんの所へ奥さんが来るから呼ぶっていっていたよ。奥さウんと俺と同じ歳なんだよ」
和辻の炯眼にかなったというべきであろう。
千石のまだ古いたたずまいを残す一角に榎本さんの仕事場兼住まいがある。 「職人図絵」から抜け出してきたような趣さえ感じる、道ばたには堆く何年もドラム缶に納められた土が積まれ、実験で塗りつけら轤黷ス色とりどりの板が立てかけてある。
「路上工房」と名付けた建築家が居た。 通りがかりの人、買い物帰りの主婦、学校帰りの小学生、ご用聞き等が時に気兼ねをしながら、時に「おじいちやん、鏝かして」と中にまで入り込んでくる。老婦人が立ち寄り「どうしてこのお宅には、Aいつもこんなに人が居るの」と語りかけてくる。
榎本さんは、口癖のように「皆、何に興味があるのかな、俺わかんねえよ」という。ご本人の疑問を無視するように集まる人々が、無意識にでもインスタントな既成の製品に不安を感じ、まがい物に対する抵抗の姿であるならば、
「今の人は基本を知らない、今の人は十から百は知ってるんだよ。一から十を知らないからだめっていうんだ。だから百で止まっちゃうんだよ。俺達は一から十をやっているから、千でも万でも行くんだよ。今の職人は十から百なんだよ。」
という、榎本さんの一から十を求めているのフではなかろうか。
「ありがとう」ワ−クショップなどによばれたときの、最初の挨拶である。 「親父なんて歳とって日左連の短大で先生やってたから、息付けたようなもので、普通の職人が60過ぎたら惨めなものだよ。」という。
昭和2年(1927年)生まれで今年74歳である。炉壇師として今なお現役で仕事を続け、対談の間にも電話が鳴り、「そんなの駄目だよ、石灰でなんか固まるもんか、駄目、だめ」と生気みなぎる声を発している姿にいささかの職人の末路を感じさせない。
「ありがたいね-、なにに興味があるんだろう。俺わかんねえよ」といい、呵々大笑しながら、居間代わりに使っている喫茶店パックに雪駄の音を響かせながら向かう道すがらでも、いま仕上げたばかりの磨きの板をさすりながら、「このスサが引っ込んでるのがいいんだよ。でも皆こんなの見てくれてないよな」と、次の仕掛けを考えている。
「ア−ァ」vと言いながら腰掛けるなり「90世帯のマンションで一軒やってるときは、1/90の壁を塗り直してるんだよって言うんだよ。そういうとき近所の人がどんな様子か見てろって言うんだよ。クロスを貼っている所をはがして塗り直せば仕事があるでしょ、って言うんだよ。きっかけを作らなネくちゃ駄目なんだよ。それを仕掛けろっていうんだ。それが環境にいいっていうんだから、いいんじゃねえの。俺には環境なんて関係ないけどね。」「そうじゃねえか」
氏にとっての人生はきっかけ作り、仕掛けの連続であったようである。趣味の域を超えている渓流釣りの話を伺っていると、さらにその感を強くする。
当時京壁の材料屋としては、東京で一番の山京商店の社長であった山崎一雄氏との邂逅についても、「普通の職人が、山崎さん教えてくださいなんて言っても、『今ちょっと忙しいから』なんていって断られるんだよ。それが何の拍子か知らないけど俺が石灰取りに行ったとき、俺も京壁習いたいなって言ったら『教えようか』っていうのが出会いなんだよ。その時親父は俺のこと見抜いていたんだよ。 あのころは大八車で石灰30俵くらい江戸川橋から学習院下に中外製薬の工場があった所まで一人で運ぶんだよ。アスファルトgじゃなくて砂利道なんだ。 こういうところを誰かが見てるぞっていうんだ。だから若い人に汗をかけっていうんだ。そのとき引っこ抜きがあるぞって言うんだよ。」と。 それ以来、山崎氏は榎本さんにとって生涯かけがえのない親父になるのである。
ここで少し山崎一雄氏の事にノついて触れて置かねばならないであろう。 三重県津市に明治28年生まれ。榎本さんとは45歳の年齢差である。 榎本さんが大切にとって置かれた各種の新聞の切り抜きによると、左官職の家に生まれ、15歳の頃京都へ出て京壁の修行を積んだ後、大正2年に東京に出て日本壁工法の技術研修に励んだ。三菱財閥の岩崎一族のおもな茶室などを手がけ、昭和31年には卓越した腕をかわれ、日本左官業組合連合会の主任指導員。44年には勲六等を受章、やがて東京芸大の講師にも招かれ、50年5月に行われた同大の奈良・高松塚古墳壁画再現研究班にも加わった。52年単身故郷スに戻り、日左連時代の終わりごろ、宮城県の福祉施設で仏像製作の指導をおこなったのがきっかけとなり、津市では、もっぱらセメントを使った観音像製作に取り組む。氏の最後は56年8月31日。死後五日目に亡くなっているのを見つけられるという寂しいものであった。57年4月2日の東京新聞は、四十九日目。再び墓参の榎本さんに肉親は言った。「遺作の観音像はぜひ榎本さんが引き取ってください。故人も一番喜ぶでしょう」ライトバンに積んではるばる東京に運び、走り回った末、板橋区四葉町の安楽寺に安置所を借りた。みずからコテを握り、コツコツと台座を作り、像を据え終わったのはつい先日のこと。「これもオヤジへの小さな恩返し。オヤジには仕事だけでなく、私の子供達の名前を付けて貰うなど面倒をみてもらった。あの世でわずかでも喜んでくれればうれしいや」と。
榎本さんの親父への思いはつきない。 「親父は『日左連Aなんか教えに行かないよ』なんて言ってたって、食うのに困るんだよ。 それから夜教えに行くんだよ。彫刻を教えてる先生は居たんだけど、本当の京壁を習いたいと言うのに、教えられるのが居なかったんだよ。だから学生達騒いじゃったんだよ。それで親父を引っ張り出したんだよ。 俺が現場で仕事やってるとき電話がかかってきて『新ちゃん道具持ってきてくれ』って言うんだ、俺の道具をだよ。親父はもう持っていなかったから。 その頃俺が協同組合に行ったとき、塵箒の作り方も知らないっていうんで、『講習会やるか』って教えてやったこともあったよ。 しばらくして親父は京都に行って鏝を頼むようになるんだよ。それで生徒に京都の鏝を使わせるようになってくるんだよ。 それから日左連の短大が出来て、親父が50年代にそこを辞めるんだ。それから一年もしないうちに、大学はつぶれちゃうんだよ。それだけ指導力持ってる職人が居なかったんだね。 その頃日左連会館って言うのが出来て、親父が学生達を使って磨きの壁を作るんだ。 柱は全部赤の磨きで窓の周りも磨いたんだよ。 それをみんな壊しちゃうんだ。だから馬鹿な奴らだっていうんだよ。 日左連の会館できたとき、材料作れる奴が居ないので『新ちゃん作ってくれ』っていうんで、どんだけサービスしてやったか、磨きの材料が無いからみんなただで作ってやったんだけど、今の日左連の連中なんか何にもしりやしないよ。 日左連やる前に、親父なんか木の舟で土をこねていたんだけど、だけど水がたまっていなかったんだよ。そしオたらプラスチックが出てきて『いいなー』っていうことになるんだ。 親父は机に向かうとよく文章書いてたんだよ。 それを『売れる、売れる』って言ってたんだけど『俺が読むんだったら分かるけど、普通の奴が読んだって分かるものかい』って言ってたんだよ。それが遺稿になるんだ。 親父はデザイン性と作業性と、それから技術が大事だということを盛んに言ってたよ。 伊豆の長八さんの仕事をうまいな-って見てたけど、私ら親父から『左官屋の原点は平らに塗ること』って教えられたんだよね。それが基本だって。 ゲストハウスを親父と二人で造ってるんだセ。俺達が作ったゲストハウスは久住の淡路島のものと違って日本建築だよ。表から見るとバラックなんだけど、中は全部京壁ですよ。天井から何から全部泥壁だもん。 それを親父が人に貸して、引っかかっちゃうんだよ。」
一気にしゃべり終わると、ふと目を遠くにやりタバコをくわえ、火を付けないまま、今度は久住章氏の話に及ぶ。榎本さんのお話を伺うのには、こちらも相当な勉強をしていないと、付いていけないのである。
「20年前に仕事がすっかりいやになってしまったんだ。そこで久住に出会って彼に惚れ込んだんだよ。それで奴と一緒に犬山で半月ほど一緒に仕事したんだよ。そのときああいう若い人がよく出てきたなーって感激したもの。俺たちが死ねば、もう日本から磨きの壁はなくなるなーって思っていたところ、久住が漆喰磨きが出来るからっていうんだ。
この野郎どこまで出来るかなーって探りに行ったんだよ。それ黷ナ半月ばかり一緒に仕事して、話聞いているとすごいすごい、俺たち関東の左官屋が知らないこと皆知ってるんだよ。よく勉強したなーって思ったよ。それで久住君の素性知りたいと思って、東京に帰るのがいやで淡路島まで行っちゃったんだよ。そしたら久住君二日間案内してくれたスよ。
あの時『奥さんな、あんたの旦那すげえぞ、今に見てろ』って言ったんだよ。久住が出てきて教えてもらうまで 関東の連中は一種の天狗だったんだよ。
久住は、これから生き残れるのは百姓と左官屋だって言ってるんだ。 久住から始まってこうやって俺は生き返っただけなんだセよ。 職人というのは、いい腕の人間に惚れ込むんだ。久住章は、いい腕をしているよ。デザイン性もいいしね。だから俺は、久住章に惚れたし、俺の先生だよ。21も年下だけどね。」
と言いながら、久住氏の最近の仕事ぶりに対して思いやり、その後に続く人材への不安をにじませる驕Bこの二人の希有な職人の関係を伺っていると、思わず目頭が熱くなってくるのを覚える。
「プロは限界に来た人間だ、可能性だろ。教育のプロなんて居ますか、可能性でしょ。ある人なんか『榎本さんは、プロって言わないんですか』っていうから『言わないね、俺職人だよ』っチてね。職人は失敗したっていいんだから。
小堀遠州が「将軍から職人まで分け隔てなく」って言ってるんだよ。俺は職人として始めて遠州の家元と直に会うことになったんだよ。だから職人って言うのはすごいだろって言うんだ。それが職人だって言うんだよ。プロじゃないよってト言うんだよ。
職人は可能性なんだ。俺はプロって言う人間は嫌いだって言うんだよ。」
肉体的な衰え、そして体験の積み重ねが思考方法を膠着させていくのを知っている。だが榎本さんの若さは、 「あんたがよかったら俺真似するよ、俺がよかったらあんた真似しなって、俺んところに仕事に来た若い者に言ってたよ。
いい物を見つける努力をして、自己流にやるな。 いい物は何かって言うことは、自分で手に取ってみなくちゃ分からないんだよ。」 と言われるように、常に疑問を持ち、
「俺は名人じやないよ,迷人なんだよ。」と言うのは謙遜ではなく、氏の物事に対する基本的な姿勢であることが分かる。
その迷いの中から榎本さんは、数多くの発見、発明をしている。職人の世界では、親方にこうやるもんだと言われれば、その通りやるのが当たり前の事だそうである。「どうだかな-」という口癖は、常に物事の道理を見極めようとする姿勢の現れでもある。
話を伺えば、ごく当たり前の事であり、常識的なことであると感じられるのであるが、私達がいかに得体の知れない怪物的なものにみる目を曇らされていることに気づかされる。
「泥を寝かして置いて使った方がいいって言う奴が居るんだ。どうしてって聞くと答えられないんだよ。
昔、神田川が氾濫して江戸川橋から鶴巻町あたりまで冠水するんですよ。その時、新しい粘土でやった壁は皆落ちたんだけど,古い粘土は落ちなかったんだよ。だから粘土は寝かして古い物の方がいいっていうことが分かったんだ。
それで親父が60になったとき『新ちゃん寝てる粘土は強いね』って言ったんだよ。皆何がいいのか分かっていないで、ただ寝かせればいいって言ってるだけじゃねえか。
親父は60になってそれを見て知ったのを、俺は30代で見て知ってるんだよ。」
「14,5年前の徳田邸で磨きの講習会をやるんですよ。 大津磨き、漆喰磨き、土佐漆喰磨き、フレスコっていう、あの時にはフレスコだけが完成していたんだけどね。それが去年OZONEでやった「土の魅力」展に出したものだよ。
その時久住は長浜の泥を入れたんだよ。それを1:1で捏ねたら、全然甘くて駄目だったんだよ。2杯t半も入るんだよ。こんな泥見たこと無かったんだよ。これなら磨きが出来ると思って持って帰って作ったんだ。
稲荷でも京白でも一杯半入れるとだいたいこわくなっちゃってたんだよ。 前から磨きのノロは作ってあったんだけど、その泥はいいな-っていうことになったんだよ。いまそれを使ってみると10年寝てたら余計使い良い粘土になるんだよ。
それが久住との出会いで粘土との出会いなんだよ。」
榎本さんと「磨き壁」の出会いは昭和24年にまでさかのぼる。 「ある人から『雑巾かかる壁があるよ』って聞かされるんだよ。その時はどういう壁だか知らなかったんだ。それを初めてみたのが昭和24年なんだよ。
千葉に有るよ、トイレの壁が真っ赤なんだ。それを見たら『わあ-すげえな』って思ったんだよ。 大津壁のことは親父から聞いて知っていたけど、見たのは初めてだったんだよ。」
日本人の生活習慣も大きく変化し、日本壁の持つ優雅さ、繊細さは数寄屋建築という特殊な世界へ追いやられ、強い壁が要求されるようになる。
「樹脂を入れれば硬くて丈夫な壁が作れることは当たり前だよ。でも樹脂は呼吸するんですかっていう課題があるよ。」 榎本さんの、日本壁に対するこだわりであり、愛着であっチた。
「昔は大津磨きと漆喰磨きだけしかなかった、それから半田磨きと土佐漆喰磨きが出てきたんだよ。それから炭素繊維の珪藻土の磨きが出来るようになり、石灰クリ−ムの磨きが出来るようになるんだよ。」
この石灰クリ-ムの開発は、左官材、塗料、あるいは絵の具というジャンルをうち破る画期的な自然素材である。
「九州に行ったとき、石灰岩の山を一山つぶして、ある人がそれに泥を混ぜて土間を作ってるのを見たんだよ。生石灰だったけどコ−クスで焼いていたから、焼き残りなんかが入っていた悪い生石灰だったんだ。それに泥を混ぜると、丁度砂利を入れたようになってたんだよ。
その生石灰を九州の石灰メ−カ−が送ってきたんだよ。 それを試しているうちに、『これ正解だな-』って思ったんだよ。それを最初にやったのが稲毛の土間なんだよ。それをやってるとき泥と混ぜて磨いたら光っちゃったんだよ。
その頃、別の方法で磨きをやっていたのがあったんだけど、弱いなって思ってたんだよ。 それが生石灰で出来ちゃったんで、これは面白い使えるぞっていうことで、石灰クリ−ムを作っちゃったんだよ。」
持ち前の研究熱心さは、ベニヤ、石膏ボ−ド、耐火板等の支持材、モルタル、プラ宴Xタ−、珪藻土等の下地の材料、ワラ、糸くず、砂等の繊維材や骨材、色粉、藍などの染料等を様々に組み合わせながら、実験を重ねるかたわら、大学や専門学校での特別授業、各地でのワ−クショップに招聘を受けこの素材の持つすばらしさと、可能性を披瀝し若者達を虜にしていくュのである。
そして2000年春にはついに「現代大津磨き」と自ら言う粘土と生石灰による磨き手法の完成をみるのである。これは、氏の地下室に仕込まれて10年にわたって眠り続けうずたかく積まれていた粘土に新たなる日が当たるときでもあった。
左官職人は勿論の事ながら、建築家、デザイナ−、画家、彫刻家、工芸家等分野を問わず、氏の路上工房に集まりときに居座り作品を作る姿をみて、「コテをすぐ使いたがるけど、素人が使えねえよ」といいながら、ゴムべら、刷毛、素手で塗る事を示唆し、作り手の要求に応じて目的にかなうコテまでをも制作するのである。
炉壇と言う小さな世界は、工法、材料、道具、そして技術の結晶であるように見える。 「12月になると遠州さんのかけ炉をやるんだよ。あれ皆どうやってやるのか分らないんだ。ア−ルで刳ってあるんだよ。鏝なんかありゃしないよ。昔は椿の葉を使ってたんだけど、A他にいいものがないかという課題があったんだよ。
あるとき、久住が『榎本さんこういうものがあるよ』て陶芸用のゴムヘラを持ってきてくれたんだよ。それをみてこれは良さそうだって使ったんだよ。」
榎本さんの工房には、実に様々な物がある。不遜な言い方をすればゴミ箱のようである。ピカソも散歩の途中目に付いた物を拾い集めていたという。
「鏝のいい物って言うけど、鏝屋に能書き言われて買ってるだけじゃねえかって言うんだ。買ってきた鏝を自分に使い良いように直すんだよ。鏝屋で買ってきた物をそのまま使っているからアホだって言うんだよ。でも使いいいって言うのが分からないんだよ。やってないから。 現場で何か始って、そこで初めて道具っていうのが出来るんだよ。」
炉壇の上面を仕上げるために古い鋸から作った鏝を見せながら、金属の材質、柄の付け方にまで及ぶ氏の話には説得力がある。 紙一枚分の精度を要求される炉壇を鏝で仕上げていくには、熟練技だけではなしえないものがあるようである。
「私なんかでも最初はバカ無かったんですよ。その時はやっぱりダメだった。 寸法でやったら誤差が出ちゃう、バカでやったら正直なんだよ。バカは一番正直だよ。
早くやって上手くやる方法を考えるんだよ。」
バカというのは、寸法や形を原寸で作った基準定規や型紙のような物である。 「俺は数学だけは子供の頃から得意だったよ。」とおっしゃるように、何事にも基準をしっかりと押さえ、技をそれに従わせて物づくりを進めていく姿こそ、
「京都は、伝統だっていうから、なにいってやがんでえ京都は伝承だって言ってやるんだよ。伝統って言うのは、それを変えることだよ。進歩なんだよ。」
と言う言葉の重みがあり、若い作家たちがこの一言で榎本さんに惹かれてしまうのである。
20年前クロスが壁材を席巻しはじめ左官の仕事を続けていくことがいやになったとき、川上邦基の著書「日本壁の研究」の一節、『今に鉄とセメントの時代になるかも知れないけど、日本壁の色土の壁も残さなくてはいけない』っていうのを読んだとき、俺は自信が沸いたんだよ、」と述懐される。
「愛着があるかゥどうかだよ。ただくっついて一日やって手間貰えばそれでいいのかって言いたくなるよ。失敗したらパ−なんだぞ、少しでもきれいにしようっていう事が無くちゃ駄目だよ。そういう愛着心が無いような職人だったら全然駄目だね。」
左官職人としての日本壁への愛着心を揺さぶられ、 「俺はコテを捨てたんじゃないよ。商売、商いを止めたんだよ。職人は止めないよっていうんだよ。コテは一生持つんだよ。」
と言う姿に、必ずしもご本人の意図とはそぐわないものであれ、周りに人々が集まり、学校から依頼され、波紋のように広がりながら、本物への志向が確実に広がりつつあるのだ。
「日本人はもっと日本通にならなくちゃだめだよ。 日本の壁を世界に教えるんだったら、もっとちゃんと覚えなくちゃいけないんだよ。
覚えてそれを世界の人間に提示するのがあたりまえだろって言うんだよ。それでいいことを教えていかなきゃっていうんだよ。」
いま日本は経済の閉塞状況にある。なりふり構わず経済成長率を追いかけてきた、つけが回ってきたのか。榎本さんは、ここでも仕掛けを強調する。
「失業率394万人居るって今朝のテレビ討論で言ってたけど、なんか仕掛ければいいんだよ。仕事が無いんじゃなネいんだよ。皆とろうと思っているから仕事がないんだよ。
貰えばいいんだよ。それで食って抜けることを考えればいいんだ。 食えないなんて言うことはおかしいって言うんだよ。なら戦後どうしたんだって俺いうもの。一日働いて米一升だよ。最低は芋3貫目で一日働いてたんだよ。
それで生き抜いてきただけだよ。景気の悪いときは、米一升でも食っていければいいんだ。生活を落っことせばいいんだよ。昔の人は商売失敗したら土方になれ、地下足袋はけっていうことになるんだから。地下足袋はけば食えるんだから。
要は、身体で勝負するんだよ。働いて金貰うんだよ。 『くえねえって言うから、あんた口の中にできものでも出来てるのか』って言ってやるんだよ。」
いま私達が一番忘れてしまった心ではないだろうか。激動の昭和史を生き抜けてきた人の重い言葉である。榎本さんは、もし近所の人や家族が家の下敷きになるような事故フにあっても俺は助け出せるだけの用意はしてあるぞと言われる。
仕事に対する姿勢を料理にたとえ 「美味しいと言われて出されても、歯が無い俺には食えねえんだよ。相手に合わせて美味しく食べて貰えるのが、料理なんじゃないか。
絶対にこれいいからって出すもんじゃねえよ謔チて言うんだ。 だから『お口に召しますかどうか』って言うじゃねえか。
集まってくる人々を分け隔てなく迎え入れて 腹割って話せばいいのに、調和を乱すんだ。一度は許すって言うんだよ。二度三度になれば許さない。そんな人が居るんだよ。それを俺は悲しいな-って思うんだよ。
今の時代に一番必要なのは調和なんだよ。」 と、顔を曇らせる。
「みんな壁塗ってくれよっていうのが俺の叫びだよ。」
いま見ることが少なくなった職人を、そして求道者的な榎本さんの姿に様々な人の足を止めさせられるのではないだろうか。千石に根を生やしたこの仕事場を、地域ぐるみで見守り、集散する人々の手により全国各地に情報が伝播していくのだ。
「左官屋って言うのは、ドロと砂とワラを混ぜて壁を塗るだけなんだよ。 どうやってやるかは見てれば判るだろ。仕上ったモノを見ただけでは分らないんだよ。」
榎本さんが手閧休めて「行きますか」は、次に打つ手を考えるときでもある。
「あんたがやってるどうらくっていうのは、道を楽しんでるんじゃなくて、道を落ちてるんだよって言うんだよ。落ちる道落をやっちゃ駄目なんですよ。楽しむのが道楽なんですよ。だから、名人じゃなくて迷人なんですよ。だって迷ってるんだから。」